昭和五十六年十月十二日 朝の御理解 御理解 第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても 眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」 学者が眼鏡をかけてもというのは、まあ年をとってもという事でしょうね。ほんをそれでもやっぱり読むんだ、勉強するんだと。そこで、なら、学者がはあ、学者であるが由にね、こんな年になってまでも勉強しなければならんなんではないと思うんでね、読まずにはおれんのであり、勉強せずにはおれんのであり、新しい学問が身についていく。それが、まあ、学徳ともなる、自分にも感じられる。ただ下手の横好きというか、好きで本を読むというのじゃない。自分の身に力がついてくる、徳がついてくる、学識がいよいよ広うなっていくという事が楽しみであり、喜びであるところに、丁度学者が眼鏡をかけて本を読むようなものぞいと、こうおっしゃったのでしょうね。 信心もそうです。確かに一生が修行です。ね、だからこの年になって修行せんならんというような修行はじゅつないですね。
本当にしゅぎょうが楽しゅなり有り難とうなり、ためにはね、自分の心の上にもいよいよ豊かに大きくなれていく修行。いわば、楽しゅう有り難う出ける修行。ほうりゃもう若い時にゃこんな修行も出けとる、いや、水かうたり、断食やら、火の行、水の行したけれども、もう年をとったらそういう事も出けんと嘆く年寄りがあります。ですからそういう修行ではいよいよつまらん事が、勿論合楽では表行が全廃ですから。勿論そういう修行じゃありませんけれども、そこに、手ごたえのある、私は修行。しかも、楽しゅう有り難う出ける修行。いうならば、学者が年をとっても眼鏡をかけてでも、本を読むというようにね、だんだん年をとっていくに従って、教祖がおっしゃるように、信心は一年一年有り難うなっていくもんじゃとか、又は位がつくものだともおっしゃっておられるように、はあ、、これが位というものであろうか、ね、成程、この有り難さがどこからこのようにして育ってくるのか、来たのかを思う時に、いうなら、有り難か涙にむせべるような、有り難さがね、育ってくる。その元をだから作っておかにゃならん。
本当にその修行の、ならば、軌道に乗っての修行でなからなければならんという事になります。ね、若い時は出けたけれども、年寄ったから出けんといったような修行じゃだからつまらん事がわかります。
合楽では貧、病、争のない世界、真善美に輝く世界、これは、合楽にかかわる信奉者の皆さん一人一人に、私が頂いてもらいたい日々の切実な願いなんです。ね、だから目指す所がね、本当に貧、病、争のない世界、真善美に輝やかんばかりの世界に。しかも、これには限りがない。そういう世界に住む、住める修行とはなら、一体どういう修行なんだろう。ね。そういう修行を的確に把握して、そしてこれでいけば必ず、いうなら、貧、病、争のない、真善美に輝く世界にも住んで行けれる。この世で頂く、いうなら、この喜びが、この魂の状態が、そのままあの世にもつながっていくと分かる時に、まあ、いうならば、生死の安心も生まれてくる。又、事実そうなんてです。もうこの世では仕方なかった、あの世でおかげ頂けばといったような事で、あの世でおかげ頂けるはずはない。この世で本当に魂が助かる。
この世でいよいよその魂の助かりに伴うた、いうならば、貧、病、争のない世界、真善美に輝く世界というものが、この広げていく手立てというものが、しかも、それが手応えのある、去年よりも今年、今年よりも来年というように、その世界が広がっていくという事を、楽しみに修行さしてもらえる修行。豊かな大きなおかげを頂きたい為には、なら、豊かな心を願わにゃならん。目指さなければならんという事になる。その豊かな心の状態がそのまま豊かな生活の上にも限りなく広がっていく。
はあ、こういう修行さして頂けば、この修行なら一生出けるというのが、私は心行だとおもうね。それこそ、寝ておっても、起きておっても、出ける修行。そして手応えがある。はあ、本当に去年の自分、今年の自分と思い比べてみる時に、心の、いうなら、大きくなっていくとうか、豊かになっていく状態が、自分でも感じられる。はあ、去年の自分なら、こんなこつじゃったら随分腹が立ったろうけれどもと、不平をいうた事であろうけれども、それが今年は不平不足をいうどころか、思わんでもすむような自分になっておる事実を見極めながら、しかもそれが、ね、いよいよ育っていくという事ですから、限りがない。だから、一生が修行だと聞くと、何か、いや信心ちゃ難しいなあ、一生修行せんならんかというですけれども、それこそ、その楽しう有り難うね、天地のリズムに、いうならばのりながらの修行。
ね。教祖様は、又の御教えに、兎角信心は地を肥やせと。ね、地を肥やしておけば、一人でに物が出けるようなものとおっしゃる。ね、兎角信心は地を肥やせ。どういう事でしょう。水をかぶったり、断食をしたからというて地は肥えません。いわば、地の肥える修行に取り組まにあいけません。地とは心です。心が豊穣に豊かにね。そこにいうならば、ひとりでに物が出けていく。そしてそこにはです、一反の田圃より二反、二反より三反、四反と、それが広げられていく。広がっていくという事が又、有り難い楽しみである。これは生涯をかけてくり返して行けれる。私はそういう修行をね、体得しなけりゃいけんと思う。ね、そういう意味で、なら、合楽でいわゆるね、黙って治めるとか、いよいよ成り行きを大切に尊ばせて頂くとか、ここは天の心で、ここは地の心でこれは日月の心をもって精進さしてもらうというようなです、実意丁寧神信心を、そこにあらわしていこうとする、そういう精進に取り組む事。しかもそれは、生涯かけての修行である事。
はじめて成程、一生が修行だなあという事になる。しかもその修行というものがです、ね、いうなら、水ももらさんおかげという事にも繋がってくる。楽しいです。愉快てですね。この心の状態が、あの世までも続くんだと思う時に、いよいよ成程、信心とはあの世の為に信心はあったんだといったような事が分かって来るんです。
この世で幸せすると、そういうもんじゃない。この世の幸せが、あの世まで繋がる為に、この世で修行する。その修行というのは、艱難辛苦の修行でもなからなければ、火の行、水の行でもない。ね、いよいよ心が豊かになっていこう、大きくなっていく、いうならば、その我が心というものが、いよいよ本当なものになっていく事。その修行なんです。ね、それを一生という事になったら聞いただけでも楽しいでしょう。有り難いでしょう。ほんとうにそういう事が出けるならばと思うでしょう。ね、そこで、なら、合楽理念をその手がかりを、あらゆる角度からそれぞれの信心程度に応じて説くのです。
誰でも、いわば、その気になれば、そこからその修行に取り組む事が出来るのです。必ずその実証が生まれてくるのです。実験をしますとね、いわゆる日々のその実験実証をさして頂く。その事自体が修行であるという頂き方。一生が修行だというと、一生も修行せんならんというのじゃなくて、どんな場合であっても出ける修行。しかも、それには手応えがある。又、それには心の上だけではない。心<のに>その手応えを感ずるだけじゃなくて、形の上にもね、いうならば繁昌というおかげが伴うてくる。成程、心しだいだなあというふうに思うのです。いよいよその心に取り組む修行であって、私は本当に一生が修行という事になり、いうなら。、学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいというのは、そういう事だと思う。ね。
自分に学徳がついて来る、知識が増えて来る事が楽しいのである。有り難いのである。信心させて頂いとって、これが、位というものであろうかと、自分の心の中に、一年一年有り難うなっていく自分を見つめ見極めていく修行。なら、その有り難うなっていく為には、こういう修行があるというのが、私は天地日月の心になる事肝要という事になるのじゃないでしょうかね。
それを、まあ砕いて申しますと、ある或る場合には、ここでいわれる、馬鹿と阿呆で道を開けよと、いよいよ豊かに、大きゅうなっていけれる大きな信心がよいと。これほど大きな信心はない、限りなく大きくいけれる。ね。又の言葉をいうならば、いよいよここは土の心で、天の心で、いよいよ成り行きそのものが、神様の御働きなのだから、その御働きを無碍にしてはならん。合掌して受けていこうとする姿勢も、構えも、だんだん出けてくる。そういうものがね、こう身についてしまうという事。血に、肉になってしまうという事の為に、私は修行しなければならんとおもうな。 どうぞ。